憲法は一般に、誰によって定められたか(憲法制定権力の所在)
によって、3種類に分けられる。①欽定(きんてい)憲法。②民定憲法。③君民協約憲法。
①は、君主が定めた憲法。②は、国民が定めた憲法。
③は、君主と国民の合意によって定められた憲法。
日本国憲法については、普通、②と理解されている。
教科書にもそう書いているし、教師もそのように教える。
根拠は、憲法の「前文」だ。その冒頭には、次のように書かれている。
「日本国民は…ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する」と。
しかし、この前文より“前”に置かれているのが「上諭
(じょうゆ=君主のお諭〔さと〕し)」。
その全文はこうだ。「朕(ちん=最高君主の第1人称、自称)は、
日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎(いしずえ)が、
定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の
諮詢(しじゅん)及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を
経た帝国憲法の改正を裁下し、ここにこれを公布せしめる。
御名(ぎょめい、裕仁=昭和天皇のご本名)
御璽(ぎょじ=「天皇御璽」と彫られた天皇の正式の印章)
昭和21年11月3日
(以下、内閣総理大臣、吉田茂をはじめ全閣僚の副署)」ここにも一応、「日本国民の総意に基づいて」と言及されてはいるものの、
帝国憲法の改正手続きに忠実に従って、天皇のご裁下を戴いて
公布したことが明記されている。
これによれば、日本国憲法の制定は、あくまでも「帝国憲法の改正」
に過ぎない。①に規定された(①としての本質を“逸脱しない範囲”での)
改正手続きにより、君主の裁下を経て定められたのなら、
間違いなく①ということになる。
一体、どちらなのか。しかし、憲法制定当時の実情については、以下のようだった。
「憲法は、自国の政府ないし国民によって自主的に
制定されなければならない。
したがって、他国によって作成された『憲法』は、
憲法の名に値するものではない。
ところが、日本国憲法は、全面的にGHQのコントロールの下に
作成された。日本国憲法の草案がGHQによって作成されたということは、
今日よく知られている。
しかし、憲法草案の審議がGHQの全面的なコントロールの下に
おかれていたということは意外に知られていない。
当時、この憲法草案に対する批判は一切禁じられており、
新聞、ラジオのみならず、個人の私信に至るまで厳重な
検閲制度の下におられていた。昭和21年に公職追放令が発令され、これによって8割もの
衆議院議員が追放された。
草案審議のための衆議院選挙においては立候補の自由はなく、
政党によっては、7、8割が立候補不可とされた。
貴族院議員の追放は169名に及んだ。
日本国民を代表する多数派の議員たちが議会から排除されていた。
議会における審議にも自由はなく、新たな提案をなす場合には
GHQの事前の許可が必要であった」
(長尾一紘氏『日本国憲法〔全訂第4版〕』)こうした実態であれば、①も②も
法的フィクションに過ぎないことになろう。【高森明勅公式サイト】
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